清水豊松(フランキー)は高知の漁港町で、理髪店を開業していた。家族は、女房の房江(新珠)と一人息子の健一(菅野)の3人家族である。 戦争が徐々に激しさを加え、豊松にも遂に赤紙が来た。彼はその前夜に、地元の民謡「よさこい節」を歌って出征して行った。 戦場でのある日、撃墜されたB29の搭乗員が、大北山山中にパラシュートで降下した。 その扱いを参謀(平田)に問われて、「搭乗員を逮捕、適当に処分せよ」との矢野軍司令官(藤田)の命令が、尾上大隊(及川)に伝達された。そして、豊松の属する日高中隊が直ちに行動を開始した。 発見された米兵は1名が死亡し、他の2名も虫の息だった。日高大尉(南原)は処分を足立小隊長(藤原)に命令した。 さらに、命令は木村軍曹(稻葉)の率いる立石上等兵(小池)に伝えられた。 そして、立石が選び出したのは、豊松と滝田(佐田)の2名の兵士だった。 その命令を受け、立木に縛られた米兵に向って豊松は歯を食い縛りながら突進したのである。 戦争が終って、豊松は再び家族と一緒に平和な生活に戻った。だが、それも束の間、大北山事件の戦犯として彼は占領軍のMPに逮捕されたのだ。 横浜軍事法廷の裁判では、命令書なしで口から口へ伝達される日本軍隊の命令方式が納得されなかった。 豊松は、右の腕を突き刺したに過ぎない自分が裁判を受けるのさえおかしいと抗議した。 しかし、裁判の結果、彼は絞首刑の判決を受けた。豊松は独房で、再審の嘆願書を夢中で書き続けた。 矢野中将が、罪は司令官だった自分ひとりにある旨の嘆願書を出して処刑された。それからの1年の間は、巣鴨プリズンでは誰も処刑されなかった。 死刑囚達は、やがて結ばれる講和条約によって釈放されるものと信じた。ある朝、豊松は突然チェンジブロックを言い渡された。 減刑か?と一瞬の思惑も束の間、絞首刑執行の宣告だった。豊松は唇を噛み締めながら、1歩1歩13階段を昇った。 「房江、健一、さようなら。お父さんはもう2時間ほどしたら死んでいきます。お前達と別れて遠い遠いところに行ってしまいます。もういちど会いたい。 もういっぺん、みんなで暮したい。許してもらえるんなら手が一本、足が一本もげて片輪になってもええ。お前達と一緒に暮したい。 けんど、それももうできません。せめて生まれかわることができるんなら……いい、父さんは生まれかわっても人間なんかにゃ、なりとうはありません。こんなにひどい目に遭わされる人間なんて嫌だ。牛か馬のほうがええ…… いや牛や馬ならまだ人間にひどい目に遭わされる。いっそ誰も知らん海の底の貝、そうじゃ貝がええ」と認(したた)めた遺書を彼は残していた。 高知の床屋では、妻が頑張って働いている。もう少しで豊松が帰って来る。妻も子供も楽しそうである。 そして、海辺で遊ぶ子供の姿。そこにモノローグが重なる。 「深い海の底の貝だったら、戦争もない、兵隊にとられることもない……戦争もない、兵隊もない、房枝や健一のことを心配することも無い。どうしても生まれかわらにゃならないなら、私は貝になりたい」 (1959(昭和34)年キネマ旬報ベストテン)
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