昭和42年(1967)、自民党・佐藤政権は「沖縄返還」を公約に掲げ、国内世論はこの問題で沸騰していた。「戦争に負けても、外交で勝つ」。国際政治学者・若泉敬(三上博史)は、尊敬する吉田茂元総理の言葉を引き、東大の後輩でのちに外務官僚となる谷内正太郎(眞島秀和)に、沖縄返還で日本外交の力が試されると説く。 若泉は親交のあった自民党幹事長・福田赳夫を介して、佐藤榮作総理(津川雅彦)と密会。返還交渉について、秘密の特使=密使の仕事を依頼される。 間近に迫った日米首脳会談で、返還時期のメドだけでもつけたい佐藤総理。彼は、「ベトナム戦争の最中に、その前線基地となっている沖縄をアメリカが返すはずがない」と動きの鈍い外務省ルートとは別の突破口を求めていたのだ。 単身ワシントンに向かった若泉は、時のジョンソン大統領の側近に働きかけ、「2~3年以内に返還時期のメドを付ける」との合意に成功する。しかし、肝心のジョンソン大統領が次期大統領選に不出馬。交渉は振り出しに戻ってしまった。2年後、後継のニクソン大統領との首脳会談を前に、再び若泉は、佐藤総理から密使の仕事を依頼される。今回は、「国際政治の怪物」と呼ばれたキッシンジャー補佐官が相手だ。 ホワイトハウスに乗り込んだ若泉は、キッシンジャーと二人だけの秘密交渉を開始。「核抜き、1972年の返還」と引き替えに、キッシンジャーが突きつけてきたのは、「有事の際の沖縄への核再持ち込み」と「繊維交渉での日本側の譲歩」というふたつの秘密の合意=密約だった。 ばれたら政権が吹っ飛びかねない「爆弾」であったが、「沖縄を取り戻すためには、やむを得ない代償」と思い定めた若泉は、佐藤総理を説得し続けた。昭和44年(1969)11月、ついに沖縄返還が決まった日米首脳会談。ホワイトハウスの小部屋で、密かに合意文書が取り交わされる。それは、若泉、佐藤、ニクソン、キッシンジャーの4人しか知らないものだった。 役目を終えた若泉は、佐藤総理に「私のことはすべて忘れてください」と語り、交渉における自らと"密約"の存在を封印する。 昭和47年(1972)5月15日、沖縄の本土復帰、そして、昭和49年(1974)年、佐藤榮作がノーベル平和賞を受賞する。 しかし、一方、繊維交渉は進まず、日米関係は最悪の状態に。専門外の経済交渉に巻き込まれ、板ばさみとなった若泉は心身共に疲弊していく。さらに、返還後も変わらない沖縄の基地負担の現実に、自らの「結果責任」を痛感した若泉は、50歳にして故郷・福井への隠棲を決意。沖縄返還交渉の真実を明かすため、長い執筆活動に入った。 そんな若泉を支え続けたのが、弁護士の妻・ひなを(加藤貴子)。だが、5年後、ひなをは急死。さらに若泉本人もすい臓がんであることを告知される。そんな中、若泉は太平洋戦争での遺骨収集のため沖縄へ向かった。 そして1994年の沖縄本土復帰記念日に、ついに著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」が出版される。600ページ以上もある分厚い本は、沖縄返還交渉の裏舞台と"密約"について詳細を究めたものだった。 「長く密約の存在を否定し続けてきた日本政府は、どう対応するのか」、マスコミは騒然となった。 国会への証人喚問も覚悟していた若泉敬。公の場で語り、沖縄への「結果責任」をとると同時に、外交戦略なきニッポンへ警鐘を鳴らす意図があったのだが・・・・・・
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